病気だと割り切るということの意味

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よく、依存法は否認の病、なんて言葉を聞く。僕自身は否認という言葉は好きではないのだが……とりあえず、その詳しい話はここではしない。

依存症の人は、自分が病気であることを認められない。あるいは、一見認めたように見えても心の底では認めていない。これを否認という。解説によっては、否認には段階があって第一の否認が云々、第二の否認が云々なんてことが書いてあるかもしれない。そういう難しい話はさておき、重要なのは心の底から病気なんだと認めることだ、みたいな話だ。

さて、この否認というコンセプトを考えた場合、実は依存症の本人の否認ではなく家族の否認こそ難しい問題なのではないだろうか。というのも、依存症がコントロールできない病であることを認めるということが、本人と家族それぞれにとって、違った意味合いを持ってくるからだ。

本人と家族、それぞれのことを考えてみたい。

本人は、気づかいないまま依存症に陥っている間、ずっと自分をコントロールできないということに悩み続ける。さらに、家族に迷惑をかけることに対する罪の意識といったものを感じ続けている。
さて、依存症が明らかになり、治療が開始される。本人が、完全に病気だということを理解する、つまり否認しなくなるというのはどういうことか。自分が自分をコントロールできなかったのも、家族に迷惑を掛けたのも病気が原因であると理解することだ。つまり、自己評価の低下や、罪の意識といったものの原因を病気に帰属させることができる。
これまでの間ずっと感じてきた葛藤が、初めて自分が許されると感じられるようになる。これは治療の上でも、本人の精神状態にとっても非常に有益なことだ。

一方、家族の側はどうだろう。依存症の間ずっと被害を受け続け、本人に対して悪い感情を持つようになっている。多くの場合、本人に罰を与えてやりたいというふうに感じるようだ。
さて、依存症が明らかになり、治療が開始される。家族の否認がなくなるとはどういう状態だろう。それは自分の被った被害を病気のせいだとして、相手に罪は無かったとするということだ。

ちょっと待ってくれよ。自分は現実に被害を被ってるんだよ。それはどうしてくれんの?ふざけんじゃないよ。あいつがやったことじゃん。

それはそうなる。ごく当たり前の反応ではある。ただ、なぜそう思うのが当たり前なのかは、きちんと考えなければならない。それはここではなく、別のところで述べることとしたい。

ただ、ここで述べたいのは、上記で考察した違いのために、依存症に対する否認という概念を考えたときには、本人よりも家族のほうがより困難を伴うということだ。

ところで、現実問題として、本人に罪は無い、つまり家族にとってはやられ損で罰を与えることもできないということを、どう解消すれば良いのだろう。ここで重要なのは、というものと、被害に対する責任というものを別に考えることではないだろうか。

偶然の過失によって、あるいは場合によっては完全な善意によってすらも、損害が起こってしまうことはある。その時に、相手に悪意はなかったということは理解して、責めることはしない。ただ、損害に対する回復は求める。そういったことに近いかもしれない。

これは私見なのだが、Anonymous系の自助グループが掲げる方針の中には、このことを経験的に分かった上での知恵のようなものが含まれていると考える。

すなわち、「本人よりもまず周辺を助けよ」「本人のことは手放し、責任を返す」だ。

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