言葉と思考

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今回は(今回も?)、まとまりのない話をする。話があっちにいったりこっちに行ったりするが、そこはご容赦願いたい。原義としてのやおい話(山なし落ちなし意味なし)。

なにで見かけたのだったか、はてな匿名ダイアリーの、普通に日本語で話すだけで疲れるというエントリー(念のため魚拓)が、非常に興味深い。このエントリを書いた方の苦労を考えると、興味深いなんて言い方をすると申し訳なくもあるが。

よく読んでみると分かるのだが、何かを発話しようとした際に、その本来行おうとした言葉の音韻に基づいて、別の言葉・フレーズが巻きこまれる形で釣り上げられているようだ。

この話を読んで、統合失調症の患者に見られることがある音韻障害と似ているところがあるなと、ふと思った。

その障害を知ったのは、ハヤカワSFから出ている「数学的にありえない」という小説の中でだ。主人公の兄が統合失調症を患っているのだが、話をするとかならずその末尾に韻を踏んだ意味のない言葉を続けてしまう、というものだ。例えば、こんな具合に、歩合に、連れ合いに。ちなみに、この本は、それなりに面白くはあるのだが、ハードSFかと思って買うとがっかりする。実は超能力ものである。

このダイアリーの人は、この現象に近いものが、最初の音韻処理の段階から発生しているようだ。すなわち、まだ言語化されていない思考の源泉と呼べるものがあり、そこから言語化を行い、発話しようとした段階で音韻処理に問題が生じ、本人の意図しない音を拾い出してしまう。

読んだ限りでは、拾い出しに意味は関連せず、純粋に音韻、つまり発音や抑揚に似たところが一部でもあれば、そのフレーズ全体を丸ごと拾い上げてしまっているように見える。途中に英語が混じってたりするのも興味深い。

少し似ている現象に、音韻プライミング効果というものがある。

誰かに「ピザ」と10回言ってもらう。その後、肘を示しながら「ここは?」と尋ねると、高確率で「ひざ」と答えてしまうという遊びが流行ったことがある。そんな感じで、ある言葉の意味ではなく音韻に基づいて、連想が強化されてしまう効果のことだ。

人の思考というものは、音と非常に密接な関係があるわけだ。

このダイアリーの人は、普段は音韻に基づいた一種の中間言語のような内容で思考を行っていて、発話をする際はそれを適宜「正しい」日本語に翻訳をしている状態らしい(と、本人も書いている)。

それは、ある意味では、まず日本語で考えをまとめてから英語に翻訳しながら話をするような状態なわけで、苦労がしのばれる。

しかし、いずれにしてもなんらかの音韻を元とした言語でもって、思考を行っているわけではある。その言語を、我々が直接聞いて意味が分かるかどうかはともかくとして。

ところで、先天的に聾の人が、第一言語として手話を用いている場合はどうなのだろうか。音声と紐付いた一般的な言語と違い、手話は視覚情報と紐づけられているといえる。

にもかかわらず、どうやら近年の研究によると、言語としての手話を使用している際には、音声言語を使用しているときとよく似た領域の活性がみられるようだ。

つまり、言語というものは音声によるものであれ視覚情報によるものであれ、脳内では同じプロセスとして処理されているものであるらしい。チョムスキーが言うところの、普遍文法的な何かを処理しているものだろうか。

さて、さらに考えてみる。人は言語を持たずに思考することはできない、なんてことが言われることがあるが、本当のところはどうなのだろうか。

そういったことを考えたとき、面白い本がある。
それが「言語のない世界に生きた男」(”A Man Without Words” by Susan Schaller, 1991)だ。

この本は、先天性聾のため、普通の教育や手話を習うことのないまま、つまり言葉というものを覚えることがないまま成長した男性の話だ。著者のスーザン・シャラーは、手話のボランティアをしている際にこの男性、イルデフォンソと出会い、彼に手話を教えようと試みる。

著者のシャラーは、いわゆる学者ではないため、学術的な論考を行った本ではない。オリバー・サックスの著書に近い、エピソード重視の本で、非常に読みやすいので、興味を持たれた方は是非読んでみてほしい。

細かな内容には触れないが、この本では、最終的にイルデフォンソは、シャラーの助けを得て、言葉(手話)を覚えることになる。特に最初の一歩、名詞の概念を知った時の彼の反応は実に感動的に描かれている。

だが、僕が本当に興味深く感じたのは、そこから先の話だ。言葉を理解する以前のイルデフォンソは、一応彼なりの方法で他者とのコミュニケーションを行いながら、生きてきていたわけだ。そして、実は彼のような人は、我々が考えている以上に大勢いるらしい。

そういった人々と関わりを持っていくうちに、シャラーは半ば自問することになる。イルデフォンソに言葉を教えることで、シャラーはイルデフォンソを魂の牢獄から救い出したつもりだった。しかしながら、本当にそうだったのだろうか、と。

イルデフォンソ自身も、言葉を獲得した現在、以前の自分がどのようなやり方で物事を理解し、思考していたのかは全く思い出せないという。そして、もはや以前と同じように物事を考えることはできなくなってしまった。つまり、ある意味では言葉というものに囚われてしまったわけだ。我々と同じように。

僕個人の考えとしては、おそらく言葉によらない理解・思考というものは依然としてイルデフォンソ、あるいは僕達自身の中にも存在しているものであって、ただそれが意識上には出てこなくなっているのだと思う。
古風な言い方で言うなら「直感」「虫の知らせ」、最近流行りの用語で言うならニューラルネットに入力した結果としての出力(中でどういう計算が行われたかは分からない)、といったものが、おそらくそれに当たるのだろう。

言葉を大切にしながらも、そういった曖昧模糊としたものも自分の中にあることを理解することが重要なのではないだろうかと、毒にも薬にもならないことを考えつつ、思考がいったん着地したところで、今回の記事は終わり。

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