人の考え方を変えるのは困難という話

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唐突に話を始めるが、人の考え方を変えるのは非常に困難だ。そしてそれは、実はその時話している理屈が正しいかどうかにはあまり関係ない。どちらかというと、理屈を聞いている側の受け入れ方の問題だったりする。

実例を挙げよう。ビッグバン宇宙論vs定常宇宙論の論争が起きた時、従来の定常宇宙論を唱えていた人たちの多くは、実は最後まで自分たちの考え方を変えなかった。しかも、そのころ、少なくとも、定常宇宙論が誤りであることを示す証拠は山ほどあったにも関わらずだ。そういった人たちが一線を退いていなくなった後に、ようやくビッグバン宇宙論が主流となったのだ。

理屈の権化たるべき(と僕はみなしている)科学者たちですらこの有様だ。普通の人たちが、自分の考え方を変えるのは非常に困難だというのは想像に難くない。ちなみに、こういう話のときよく出てくる、「確証バイアス」というキーワードがあるので、興味のある人は調べてみてほしい。

さて、依存症の話だ。

依存症から抜け出せない人たちの陥っている罠というのは、そういう人間の変えられにくさと少し似ているのかもしれない。ここでは考え方の、ではなく、生き方の、だが。

「なんでこんな誰でもやってる当たり前のことができないの?」なんて、訊く人がいる。

そう言われた時、まあその場は「ごめん」なんてごにょごにょ言って鬱ゲージを貯めつつも、思っていることは、いや、誰でもできる当たり前のことじゃないよ、と。そもそもその前提が間違ってるんじゃないかな。

誰でもやってる当たり前のこと。それはとどのつまり、我慢だ。いろいろ細かい違いはあるかもしれないが、我慢。それにつきる。我慢しなさい。我慢。

でも、我慢っていうほど簡単なことじゃない。常に我慢をし続けるということは、結局生き方そのものを変えるということだからだ。我慢が簡単なことなら、今頃ダイエットをしてる人は全員成功しているはずだし、マークトゥエインだって”Quitting smoking is easy. I’ve done it a thousand times.(禁煙なんて簡単さ。1000回くらいやってるよ)”なんてカッコいいセリフは言わなかっただろう。

「そんなことないだろ。俺は我慢できる。お前の意志が弱いからだ」

これもよくある誤解だが、依存症に陥るかどうかは意志の強さとは関係がない。いくら普段強い意志を持った人でも、依存症になるとその力が使えなくなってしまうのだ。結果的に、意志が弱い人のように見えてしまう。

もっとも、意志の強さを数字で図ることはできないので、きちんとした根拠を示すのは難しいが、元合衆国大統領世界一のゴルファー優勝までした関取旭日大綬章を受けた政治家だって依存症になる。彼らが意志の力が弱い人々だとは、とても思えない。

「人殺しや盗みは我慢できるだろ。それと同じ当たり前のことがなぜできない?簡単だろ」

まさにそこが問題なわけだ。
しかし、ここで冷静になって考えてほしい。ごく当たり前の、簡単なことが、どれだけやってもできなくなる。それこそ病気ということじゃないだろうか。

普通に歩いていた人が、歩けなくなる。食事の時に子供が口を開けられなくなる。物事が全然覚えられなくなる。ダメだと分かっていることが、止められなくなる。

ちゃんと歩け、ちゃんと口を開けろ、ちゃんと覚えろ、ちゃんと止めろ。そう言って、解決するだろうか。解決するはずがない。きちんと状況を理解したうえで、それに応じた対策を取らなければならない。

「自分に都合のいいことばかり言いやがって。病気だからなんでも許されると思うな」

依存症は病気だから仕方ないねと何もかも許してくれと言いたい訳ではない。被害を与えた人や、迷惑をかけた人、心配させた人には申し訳ないという気持ちでいるが、それはそれとして、依存症に対する理解はしてもらいたいという希望はある。なぜなら、周りの人の理解がなければ、症状を改善させるのは困難だからだ。それを利己的と言われれば、返す言葉はない。

依存症の人が助けを得られなかった場合行きつく先は、残念ながら厳しい言い方をすると、二通りしかない。自殺か、刑務所かだ。適切な治療を行うことができれば、人的資源の回復にもなるし、犯罪の減少にもつながる。実際、その考えを基に、アメリカではドラッグ・コートという仕組みまである。

「言いたいことは分かったが、どうも納得はできない」

それはどうしようもない。僕としては、分かってもらいたいのは山々だけど、心から理解はしてもらえないだろうとも思ってる。

なぜかって、理屈で人の考え方を変えるのは非常に難しいから。これは依存症の人の話だけではなくて、その周りの人の話でもある。

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