ヴェルディ、と言えば何を思い浮かべるだろうか。サッカーチームの方ではない。作曲家の方だ。
あるいは、ヴェルディってそもそも誰?という人でも、「椿姫」(あるいは、ラ・トラヴィアータ)や「アイーダ」という歌劇のタイトルなら聞いたことがあるかもしれない。
どちらも聞いたこと無いんですけど、という人でも、流石に椿姫の「乾杯の歌」なら聴いたことがあるだろう。
そのヴェルディが書いた歌劇の中に「ドン・カルロ」という作品があり、中期の傑作と評されている(ところが、初演は散々なものだったらしい)。この「ドン・カルロ」は、シラーの戯曲「スペイン王子ドン・カルロス」を下敷きにしており、そのタイトルの通り、スペイン宮廷にまつわる話だ。
以下では、歌劇上の役名ではなく歴史上の人名で話をすすめる。
ざっくりしたあらすじはこんな感じだ。歌劇は、愛と政治の2つの軸を持つ物語となっている。
ドン・カルロスには相思相愛の婚約者、フランス王女のエリザベート・ド・ヴァロワがいた。しかし、父親のフェリペ2世が政略上の理由でエリザベートと結婚してしまい、二人は引き裂かれることになってしまう。結婚後もドン・カルロスとエリザベートは心を通い合わせる一方、フェリペ2世はフェリペ2世で、自分が愛されていないことに思い悩む。この、誰も幸せにならない三角関係が、物語の中心軸のひとつだ。
また、当時ネーデルラント(現在のベネルクス付近)の中心地フランドル地方では、プロテスタントの勢力が強まってきており、カトリック派であったフェリペ2世による弾圧が始まっていた。それを救済しようとする、ドン・カルロスとその親友ロドリーゴ。この二人とフェリペ2世との間の対立が、もう一つの物語の軸となる。
話は省略するが、いろいろあった末、王に逮捕されたドン・カルロスを助けるためにロドリーゴは死ぬ。エリザベートの侍女(ドン・カルロスに惚れていた)の助けを得て、なんとか独房を抜け出したドン・カルロスは、エリザベートに別れを告げ、逃亡する。最後は、フェリペ2世にすんでのところで捕えられかけたドン・カルロスを、先王カルロス1世(神聖ローマ帝国カール5世)の亡霊が助け、どこかに連れ去ってしまう。
今風に言えば、親父に婚約者をNTRされた王子が、親友と理想に突き進むBLもの、という見方もできなくはない……?
いずれにせよ、いい感じに誰も救われない話であり、歌劇中では、ドン・カルロスは悲劇の主人公として描かれている。
史実ではどうだったか。
実際にドン・カルロスはエリザベート・ド・ヴァロワと婚約していたし、結局はフェリペ2世がエリザベートと結婚したのも事実。ただし、当時は政略結婚が当然の世であり、どこまで愛情なんてものがあったかは不明。ドン・カルロスとエリザベートが愛し合っていたなどという記録は無い。
ちなみに、フェリペ2世とエリザベートとの間には2女がもうけられている。この子供たち(イザベラとカタリーナ)をフェリペ2世は非常に可愛がったらしく、親し気な書簡を送っている記録などもある。
ドン・カルロスがネーデルラントの独立勢力とどの程度通じていたは分からない。しかし、父親への反抗から、ネーデルラントへ逃亡を図ったのは事実らしい。結果的には、フェリペ2世によって幽閉され、最後はそのまま死亡した。
ドン・カルロスが死亡したのが1568年の7月24日。エリザベート・ド・ヴァロワは、あたかもその後を追うようなタイミングの1568年の10月3日に死亡している。後のネーデルラント連邦共和国の盟主たるオラニエ公ウィレム1世は、このことをフェリペ2世が自分の妻と息子を毒殺したのだと非難している。が、ネーデルラントの独立に関わる時期でもある。これはプロパガンダの要素が強いと考えるのが自然だろう。ちなみに、現代の史家には、二人とも自然死だったと考えている人が多いようだ。
こういった史実と物語の乖離には、もちろんシラーやヴェルディによる、作劇上の都合というものもあっただろう。しかし、その背後には、数百年になんなんとする、黒い伝説(Black Legend)と呼ばれる要素があったことも無視できない。
新大陸への植民地競争や、ネーデルラントの独立運動などを背景として、16世紀ヨーロッパには、当時イケイケだったスペインに対する反感が醸成されつつあった。そんな中、いろいろな形で、反スペインのプロパガンダが展開されることになる。いわく、スペインは自分勝手で残酷だ、ムスリムが混じっていて純粋なヨーロッパ人ではない、技術的にも遅れている、などなど。そうして、悪いことには尾ひれがつき、いいことは無視されるというありがちな空気が出来上がっていった。これを総称して、黒い伝説と呼ぶ。
かくして、フェリペ2世とドン・カルロスとエリザベートを並べて考えた場合、フェリペ2世は悪役で、若くして死んだドン・カルロスとエリザベートは、フェリペ2世によって虐げられる悲劇の若者たちといった構図を作りやすくなっていたわけだ。
無論、単純な善悪の構図にはなっておらず、フェリペ2世にはフェリペ2世なりの苦悩があったとしていたあたりは、ヴェルディらしい深みを物語に与えている。「彼女は私を愛したことがない」「ひとり寂しく眠ろう」といったフェリペ2世が歌う苦悩のアリアは、劇中の見せ場でもある。
とまあ、ここまでは比較的よく知られた話である。
長くなってしまったので記事を分けることにするが、ここまでの話は、実は前置きの予定だった。次回、フェリペ2世とドン・カルロスにまつわるもう一つの物語を紹介する。
実のところ、その話こそが、僕が本当に紹介したい話でもある。
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