箱根関所に足を運ばれたことはあるだろうか。
「入り鉄砲に出女」などと歴史の授業で習ったことを思い出す人も多いと思うが、箱根の関所破りは重罪で、基本は磔、つまり死罪だった。箱根資料館に入ってみると、関所の年表のようなものが展示されているのだが、他にあまり書くことが無かったのであろうか、「誰それが関所破りで死罪」のオンパレードである。
さて、1702年、江戸の親戚の家で奉公をしていたお玉という少女が、故郷の伊豆が恋しくなり、奉公先を出奔する。箱根までは旅してきたものの、通行手形があるはずもなく関所を避けて山中を西へ抜けようとしたところ、設置されていた柵を越えられずに絡まっていたところを捕まってしまう。本来は磔であるところ、情状酌量があったのか、罪を一等減じられ、獄門とされ、さらし首となった。
物悲しいお玉の話は世間の同情を集めたのだろう、箱根関所の近辺には、お玉の名を関した地名がいくつか残っているらしい。
……そして、このお玉であるが、現在では箱根関所の萌えマスコットキャラ「たまちゃん」として活躍中である。もちろん幽霊なので、足が無い。
いやいや、マスコットキャラにしちゃうのはどうなのよと思われる方もいると思うが、その評価はさておくとして、この話を知ったときに僕の頭をよぎったのは、あるアニメから生まれたマスコットキャラのことだった。
その名も「ジバクちゃん」。劇場アニメーション「人狼 JIN-ROH」序盤において、主人公の目の前で自爆する少女を、同作の作画監督でもある西尾鉄也がデフォルメ化したもので、単独でグッズ化までされた人気(?)キャラクターである。柴田亜美の「ジバクくん」とは特に関係ない。たぶん。
というわけで、今年に入ってから記事を更新してきたアニメ紹介シリーズの最後、3本目に取り上げるのは、沖浦啓之の監督デビュー作でもある「人狼 JIN-ROH」である。
原作は、立喰師と並ぶ押井守のライフワークとも言える改変歴史シリーズ、いわゆる「ケルベロス・サーガ」だ。作品の発表順としては押井守監督の実写映画「紅い眼鏡」に端を発するこのサーガは、すぐ後に出版された藤原カムイ作画のコミック「犬狼伝説」において一応の完成を見たと言ってもいいだろう。
というのも、押井守監督の実写映画として「紅い眼鏡」と「ケルベロス-地獄の番犬」の二作品が存在するのだが、映画作品としてはともかくとしても、正直なところ「物語」としては不足が多いからだ。まずは前日譚にあたり、かつ物語として完結している「犬狼伝説」を読んだ後で実写作品を観たほうが分かりやすいだろう。ちなみに、「紅い眼鏡」は草尾毅のデビュー作でもある(死体役)。
(補足:実は「紅い眼鏡」の直前にラジオドラマがあり、現在は同作のサウンドトラック完全版にドラマの再録版が収録されている)
さて、実写映画「ケルベロス-地獄の番犬」以降しばらく沈黙していたケルベロス・サーガであるが、世紀末になって劇場用アニメが製作されることになった。本来ならば押井守が監督しても良さそうなものであるが、おそらく「アヴァロン」で多忙だったせいだろうか、何故か(などと書くと失礼だが)、当時凄腕アニメーターとして鳴らしていた沖浦啓之が監督となっていた。押井守は、脚本としてクレジットされている。
この配置は押井守によるものだったらしいのだが、今にして思えば実に素晴らしいものだった。沖浦啓之が監督したことによって、一般人に訴求しうる、実に情緒あふれる作品へと生まれ変わっていたからだ。
しかしながら、考えてみるに、ケルベロス・サーガが藤原カムイによって「犬狼伝説」という筋の通った物語として立ち現れた以上、その次の段階として、沖浦啓之によって人間味のあるドラマとしての「人狼」が世に出るのは、ある意味必然であったのかもしれない。
沖浦啓之による演出は、全体を通して、いわゆる押井映画とはまったく異なるものとなっている。
まず、生活感やその場の空気感といったものが重視されている。例えば、レイアウトのかっちり決まった、押井映画ならダレ場になっているであろうシーンでも、必ず環境音が入っていたりする。
また、近年の沖浦啓之といえば、人物の細やかな芝居で知られるアニメーターでもあるわけだが、この作品でも人の些細な動き、何気ない仕草が実に大きな意味を持つものとなっている。敢えて細かな影を描かずに、自然な動きを重視した動画は、ドラマにおけるリアルな芝居のアニメーションとして、最高の作品の一つなのは間違いない。
そしてなにより、きちんとした恋愛映画となっている。押井守ならここまで真っ当な恋愛映画にはならなかっただろう。主人公・ヒロインに対しても、実に感情移入がしやすくなっており、特にアニメファンではない一般の視聴者が見ても、かなり分かりやすい大枠となっている。
かといって、脚本を担当している押井守の色が無くなっているわけでもない。要所要所に挟まれる、淡々とした長台詞や、組織の権謀術数のシーンなどは健在である。ただ、その配分というか、バランスが実に丁度いい。監督と脚本の協力……というか緊張感のある綱引きが機能した結果だろう。結果として、シナリオの裏を読んだりしつつ、細やかな芝居の意味に後から気付かされるなど、何度観ても新たな発見のある、味わい深い作品となっていると思う。
さて、実はこの作品、Production I.Gによる最後の長編セル撮影作品としても知られている。
そして、実はここ3回ほど紹介してきた一連のアニメに共通するテーマとは「セル画時代最後の作品」である。マクロスプラスはセル画最後の板野サーカスが観られる作品であり、ジャイアントロボはセル画最後のOVA大作というわけだ。
ちなみに、今の若いアニメファンは「セル画」といってもあまりピンとこない、実物を見たこともないという人が多いかもしれない。しかし、我々の世代だと、わりとあちらこちらでアニメのセル画を入手することができたりして、比較的身近なものだった(アニメイトでも売っていたりした)。
セル画の方が味があって素晴らしい、などと言うつもりはない。現代のデジタルアニメーションのほうが、より細やかな作画が可能だろうし、CGによる支援もあって、より演出意図に近く、かつリアルなものを製作しやすいだろうことについては、疑問の余地はない。時代が進めば手法も進化する、ごく当たり前の話だ。
ただ、セル画によるアナログな製作であっても、最後の時代にはこれだけの作品を生み出すに至ったということ。そして、現在のアニメーションの技術というのも、それらの技術の延長線上に存在しているということ。そういったことを思い浮かべながら、古い作品を鑑賞するのも、たまには面白いのではないだろうか?
あー、この頃のアニメは、セルに人物やら背景やらエフェクトやらが一枚一枚バラバラに物理的に手で描かれて、彩色されて、重ねた上で光学的に撮影されたフィルムによるアニメーションだったんだな……てな感じで。
今回は、以上。